震源直近の離島の1年半後 / 住民の半数が戻り漁にいそしむ
「ここに帰ると、やっぱりいいねえ。海を眺めるだけで気分がいい。変化するから、一日中見ていても飽きない」。高台の建物の窓から眼下の海を眺め、島の区長、木村二三次(ふみじ)さんが、しみじみ述懐する。
宮城県女川(おながわ)町の沖合13㌔にある離島・江島(えのしま)。昨年3月11日の東日本大震災の、震源に最も近い島の一つだ。周囲4㌔弱、90人ほどの島民が、ウニ、アワビ、ホタテ、ワカメ漁などの漁業で暮らしていた。あの日、2度の大きな揺れが来て、津波に襲われた。幸い揺れで倒壊した家はなく、急峻(きゅうしゅん)な地形を頼りに高台に避難し、島民全員が無事だった。「島だから、津波が両側に分かれて通り過ぎてゆく」。昔からそういわれていたことが、証明された形だ。しかし、電気、水道、電話、それに女川町との定期船が途絶え、孤立した。
震災から5日後、避難指示が出てヘリコプターで女川町に向け離島、その後さらに、被害の激しかった女川町から親戚知人を頼って石巻、仙台などに住民は分散した。そのときの住民の願いは、「近い将来、90人、みんなで島に帰りたい」。江島は、「安心してご飯の食える」住みよい里だったからだ。それから1年半以上たって、島民は戻れただろうか。消息を尋ねるため、10月の末に島を訪ねた。
インフラ復旧が急務
震災から1年半以上たっても、女川町の中心部は相変わらず横倒しになったビルが放置され、それ以外のがれきは整理されて更地になったままだ。江島へ渡る定期船は、舗装がはがれた更地の先にある岸壁から、1日3便出航していた。シーパル女川汽船の定期船「しまなぎ」61㌧。この船は、震災時、津波を沖で避けて奇跡的に帰還したという。
午前の便の乗客は約20人で、工事関係者と思われる人が多い。北風でややうねりの出た海上を、30分ほどで江島に着く。岸壁には、島の住人が、船で着く人や物の出迎えに来ていた。岸壁と、そこにつながる道路を、囲むように積み上げられた土嚢(どのう)が目につく。島が震災で1㍍以上沈下したため、低い土地の道路が、満潮時に冠水するようになり、応急処置をしているのだ。岸壁自
体も、船を着けるために60㌢かさ上げした。それでも満潮時には、なお波をかぶる。島の中を歩くと、津波で流された漁協の冷凍庫の跡をはじめ、高台でもあちこちに建物の土台だけが、むき出しになっている。
江島の避難指示が解除されたのは、昨年の11月8日。定期船もそのころ運航を再開した。「島に戻って驚いたのは、使えなくなっていた家が多かったことです。余震で屋根瓦が壊れ、そこから雨漏りして、中が腐って住めなくなっていた」と木村さん。震災時は無事に見えた住宅や倉庫など70棟近くを取り壊さざるを得なかった。だから昨年11月、島に戻れたのは、島の生業・漁業に関係の深い人々を中心に22軒。その後多少増え、現在、26軒約50人が島で暮らしている。
震災後、電気や電話は比較的早く回復したが、水道を
はじめ島のインフラの復旧は、差し迫った課題だ。本土からの海底パイプが破損した水道は、浜辺に海水の淡水化装置を置き、既存の水道設備につないで生活用水にしているが、「使っていなかった水道管がさびて、色のついた水が出たりするので、飲料水はペットボトルを取り寄せて使う人が多い」。今年度中に海底パイプを敷き直し、本格的に再建する予定だ。地盤沈下対策として、岸壁をさらにもう60㌢かさ上げし、すっかり波の下に沈んでしまう漁船の船着き場や荷揚げのウインチを使えるようにするために、町や国との交渉を進めている。集会所や避難所に使っていた江島開発総合センターは取り壊され、代替施設の再建も急務だ。定期船に乗っていた工事関係者は、海底ケーブルや通信施設の修復や更新にあたっている人たちだった。島内での宿泊が困難なため、本
土からの通いだ。道路の補修を含め、まだまだやらなくてはならないことが多い。
50人が肩を寄せ合って
「島の平均年齢は、いま70歳以上かな。子どもたちの世代は、教育や医療の関係もあって、皆、本土に住んでいる。これ以上戻ってくる人が増えることはないかもしれない」。木村さんが語るように、島の将来像は、なかなか思い描きにくい。が、住民同士は家族同然の安心感がある。「11月がアワビの解禁なので、去年は戻ってすぐ漁をやった。震災前からなじみのダイバーを頼んで、共同採取した。幸い漁船が4隻残っていたので、島の人が交代で乗って監視員を務めた。漁獲は思ったよりもあった。各地で漁をやらないところが多かったので、値段もまあまあだった」。ちょっと元気の出る結果だったようだが、「今年の解禁を前に先日あった入札会では、去年の6割ぐらいの値に下がった」と、木村さんはやや残念そうだ。
今年の夏はウニ漁もした。津波後の海中の状態は、海藻が多く、ウニの育ちは良かった。ただ、震災以前に島のウニの加工を引き受けていた女川町の大手業者が被災したため、出荷できた量は多くはなかったという。それでも、「アワビとウニで、生活は成り立つ」めどが立ち、最近はさらにワカメの養殖に備えて、ロープを買い込んだ人もいる。
「島の伝統は、島民全員が漁協組合員。漁に出ても出なくても島の全員に漁の成果を配当していた」。つい最近、島の暮らしに欠かすことのできない有線放送設備が、NPOの協力で復活した。「11月からのアワビ漁について漁協よりご相談があります。重要な会議ですので、全員お集まりください」。有線放送が呼びかけている。帰島した約50人が肩を寄せ合うような暮らしのありようが、浮かび上がる。
(グリーンパワー2012年12月号から転載)