上附馬牛・大出(かみつきもうし・おおいで)岩手県

伝統野菜作る民話の里

早池峰山を仰ぐ遠野物語ゆかりの里。お年寄りたちが伝統行事を指導。伝統野菜の暮坪(くれつぼ)かぶ、ホップ、ワサビ栽培、ヤマメ養殖も。

  • 交通:JR釜石線遠野駅からバスで50分/釜石道東和ICから車で80分
  • 特産:暮坪カブ、ホップ、ワサビ、ヤマメ
  • 食事:夢咲き茶屋 0198-62-7714
  • 直売:附馬牛ふるさと村直売所0198-64-2300/産直あぐり遠野0198-62-8002
  • 関連ウェブサイト:遠野市観光協会

※ 交通アクセスや店舗情報などは、お出かけ前にご確認ください。

※ 車ナビは、里を訪れる際の目標ポイントを数値化したマップコードで、()内が施設名や地点です。地図では★で示しました。カーナビのマップコード検索で利用できます。

6. 上附馬牛・大出

2017年09月25日

■営みを、祈りを、語り伝えて  岩手県遠野市

「上附馬牛・大出」のある岩手県遠野市が朝日新聞「訪ねる」欄(2017年9月21日夕刊)に紹介されました。ぜひ、お出かけください。

 

◇   ◇   ◇

 

木々に囲まれた小川のそばで、麦わら帽子の男性がくれた名刺には「カッパ淵の守(まぶ)り人(っと) 二代目カッパおじさん」とあった。運萬(うんまん)治男さん、68歳。まぶりっととは「番をする人」という方言だ。

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●カッパ淵の守り人、運萬治男さん=朝日新聞

 

「春、夏の方がカッパは出やすいな。木の葉の散る頃には、山奥の滝つぼ深くに修行に行く。修行も仕事。カッパもうちらと同じ貧乏人だで」

 

運萬さんは続ける。我が子には今の貧しい暮らしから抜け出して欲しい。そう願って民衆が語ったのが遠野の民話だ。カッパも座敷わらしもオシラサマも、背後には貧しさと人間の命を巡る悲しい実話があった。それらを忘れず、供養するために語り継ぐ。子どもは大人になって、本当の意味を知ればいい、と。

 

絶え間なく聞こえる風と水の音。その中にかすかだが、カッパの気配が感じられた。

 

*   *   *

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●伝承園の「オシラ堂」。馬と娘をかたどった人形に、訪れた人々が願いを書き込んだ布を着せる=朝日新聞

 

岩手県遠野市にある、このカッパ淵の東約4キロの山口集落に生まれた作家志望の青年、佐々木喜善(きぜん)は、地元の伝承に詳しい大人たちの間で育った。彼が「民俗学の祖」と呼ばれる柳田国男に出会い、語ったことで1910年、「遠野物語」は世に出た。

 

 

 

10分ほど歩き、伝承園へ。オシラ堂には、馬と娘をかたどった人形に鮮やかな布を着せた神「オシラサマ」がまつられている。昔、娘が馬を愛し、夫婦になったことで、怒りに駆られた父親が馬を殺した。悲しんだ娘は馬とともに天へ昇り去る。伝説はオシラ信仰とともに受け継がれた。

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●語り部の立花和子さん。伝承園の留守役「ロボット」(右下)は伝説的な語り部、故・佐々木イセさんの声だ=朝日新聞

 

 

午前11時すぎ。いろりを囲む人々が立花和子さん(70)の語る「オシラサマ」を聞いていた。「馬さえいねば、いかべと思ったが、娘まで連いてかれるとは思わねがった。許してけろ」と悔やむ父親。やがて親たちの将来を案じた娘が夢枕に現れ、「とどっこ(蚕)」という虫を春に授けるから、虫の繭から糸を取って布を織るようにと告げる。オシラサマは養蚕の神でもあるのだ。

 

*   *   *

 

午後2時すぎ、バスで縁結びの祠(ほこら)、卯子酉(うねどり)様へ。赤い布がひしめく神秘的な場所だ。オシラ堂では「四十肩が治るように」。ここでは「良い取材との出会い」を願った。

 

1.5キロほど足早に歩いて中心街の「とおの物語の館」に着く。午後3時に「遠野昔話語り部の会」菊池玉会長(83)、「遠野ふるさと観光ガイドの会」細越澤史子会長(76)と待ち合わせていた。

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●語り部の菊池玉さん(左)、ガイドの細越澤史子さん。柳田国男が滞在した旧高善旅館(とおの物語の館)で=朝日新聞

 

「卯子酉様は自分が夫婦になりたい相手と来て、赤い布にお互いの名前さ書いて来ねば駄目だ」とあきれられた。

 

菊池さんが由来を語り始める。「昔、祠の近くに住んでた娘に沼の主が惚れたって。正体のわかんないままでは一緒になれないって、ヘビに姿を変えて会いに行ったども、父親に『何だ、こんなちっちゃいヘビ』って殺されてしまったんだと」。細越澤さんが解説を加える。「沼の主の結ばれない恋を思って、利き手と反対の、結びにくい手で布を結ぶわけ」。なるほど。

 

語り部になって四半世紀の菊池さんだが、不安もある。「遠野でさえ、我が子は都会で働いて欲しいと、農業の大切さを教えようとしない大人がいる。ボタンが取れただけで服もすぐ捨てる。こんなで昔話の『意味』まで語れる人、それを知りたいと思う人、この先もいるべか?と」

遠野には他にも様々な史跡がある。老人たちが最期の日々を過ごした「デンデラ野」。子宝を願う男根を模したご神体「コンセイサマ」。生から死まで、人の営みが可視化された土地なのだ。柳田は「これを語りて平地人を戦慄(せんりつ)せしめよ」と記した。襲ってくる戦慄の正体が知りたくて、何度でも訪れたくなる。

 

◇伝承園(電話0198・62・8655)は遠野駅からレンタサイクルで約5キロ、片道25分。「あえりあ遠野」からはタクシーで2000円以内だった。伝承園を13時37分に出るバスに乗り、終点の営業所で14時10分ごろ下車。さらに数分歩くと道の向かいに卯子酉様がある。五百羅漢はクマ出没の危険も考慮し、複数人で。

 

■【おすすめ】寺のこま犬も、頭にお皿

曹洞宗の寺院、常堅寺の近くに住んでいた「初代カッパおじさん」の故・阿部与市さんは幼い頃、カッパ淵で「実物」を目撃したという。「先代が10年以上前に寺のお墓のあたりに引っ越した」ため、今は二代目の運萬治男さんが、本人に代わってその逸話を来訪者に語り伝えている。

 

寺ではその昔、火事が起きたが、火は消し止められ、カッパ淵との間に小さな足跡が残っていた。カッパが皿の水で消してくれたのか。感謝の念から頭にくぼみのある「カッパこま犬」が境内に作られた。「皿に水がなく乾いていると火事が起きやすい」など、防火の目安でもあった。

 

こま犬は、閻魔(えんま)様たちをまつった「十王堂」を守る。死後に生前の善行と悪行が計られることを示唆するお堂だ。

2012年09月21日

ルポ にほんの里100選21 藤原勇彦 グリーンパワー2012年9月号から

     

民話の里のグリーンツーリズム / 被災者支援にも経験生かす

     

    

一見すると城のように見える巨大な千葉家の曲り屋

 日本民俗学の父で、「遠野物語」の著者柳田國男。その長男夫人の柳田冨美子(とみこ)さんは、今でも東京と遠野を行き来する生活を送っており、雑誌『婦人の友』7月号に、「馬搬(ばはん)」についての論考を載せている。「森を守り、震災復興のためにも、遠野に残る馬で木を搬出する技術・馬搬を活用しよう」との論旨だが、この一文のことを教えてくれたのは、遠野市綾織(あやおり)にある曲(まがり)屋「千葉家住宅」の主、千葉耿史(こうし)さんだった。「90歳をすぎてこんなに明晰で簡潔な文章を書く人はめったにいません」と感嘆する。遠野の人々にとって、やはり柳田國男と、その係累の人々は、特別な存在なのだと感じさせる。

 千葉家は、遠野市綾織の豪農だった。遠野と盛岡をつなぐ国道の北側、見晴らしの良い丘の中腹に石垣を築き、人の住む母屋と馬小屋を直角に連結した、L字形の巨大な茅葺(かやぶき)屋根が、城のようにそびえている。19世紀初めにできた南部曲り屋の典型で、800坪の敷地に母屋のほか、土蔵や納屋、稲荷(いなり)社など。かつては作男15人、馬20頭を有していたという。2007年には、国の重要文化財に指定された。経済社会基盤が変化した現在、古い形のまま生きて使われている曲り屋は、遠野でもごくわずか。千葉耿史さんは、この家に婿入りしてから30年以上、奥さんとともに曲り屋で暮らし、かつ、文化財として公開してきた。「茅葺屋根を煙でいぶすために、家の中で薪を焚(た)く風呂をつくってあるんです」という。風呂に入るたび、家中を煙で満たさなくてはならない。今年、その奥さんに先立たれ、千葉家の曲り屋暮らしも、文字通り曲がり角に来ているという。

     

グリーンツーリズム先進地 

     

秋の稔りを待つ上附馬牛の田園風景

 遠野には、観光のための大規模施設はない。曲り屋や寺社、石碑、博物館、農村風景、早池峰(はやちね)などの山々……。それらがよすがとなって甦(よみがえ)る民話に彩られた過去の暮らし、そして現在の暮らしが、遠野の魅力の源だ。十数年前から、ヨーロッパの滞在型余暇活動であるグリーンツーリズムを視察研究し、2003年に設立されたNPO法人遠野山・里・暮らしネットワークは、遠野で地域を元気にすることを目指す、自発的で草の根的なグループの集合体だ。ツーリズム関係者のほか、農家のグループ、女性グループ、遠野らしく馬を飼っているグループ、茅葺職人や伝統芸能関係者も参加している。会長の菊池新一さんは、「農家民泊を中心に、農家の女性の副収入につなげ、元気にする」ことと、「あるがままの地でゆく」ことが遠野流だという。

 メニューにあるワーキングホリデーは、例えば都会の学生などが、1週間程度、農家に居候し、寝食を共にする。地域に多いリンゴ農家ならば、人工授粉や摘果、収穫、選別作業などを体験するが、宿泊者を労働力として期待しているわけではない。人を迎え、話をすることが苦でない農家が中心になって受け入れ、都会の人にリフレッシュしてもらい、お互いを知るのが目的。その場で金銭の関係は発生しないが、泊まった人がリンゴやコメを買ってくれるようになり、10年近い間に結果として、400人近い農産物直販の顧客名簿ができ、農家を潤している。ニーズが増えつつある小・中・高校生の農家民泊への対応も120軒以上で行っている。農家に負担をかけ過ぎないよう受け入れ日数を制限し、農村での日常を体験させる一方で、集落を子どもたちが闊歩(かっぽ)する姿に、地元側も癒やされるという。

 さらにユニークなのは、ツーリズムと結びついた学生向け合宿型のドライビングスクール。合宿で運転免許を取る際には、講習の進度の関係で半日程度の余暇ができてしまうケースがよくある。そんな際に農家に宿泊し、農業や乗馬の体験をしてもらう。遠野のファンづくりだ。春夏冬の大学の休暇期間以外は受講者が減るため、手の空いた指導員が、シイタケ栽培に従事するという「二毛作」システムだ。さらに、遠野山・里・暮らしネットワークはNPOとして旅行業の免許を取り、消費者が主体的に選べるような、規格品でない地元から発信する旅の商品づくり、「旅の産直」を始めようとしている。

     

被災者支援に経験生かす

     

 昨年の東日本大震災に際しては、このグリーンツーリズムの経験が被災者支援に役立った。遠野は、震災で市役所が全壊したが、人的被害は少なかった。遠野山・里・暮らしネットワークでは、被災地域から車で1時間弱という地の利を生かし、壊滅的被害を受けた陸前高田(りくぜんたかた)市や大槌(おおつち)町で、救援物資を届ける作業を始めた。ことに、自主的に個人宅へ避難したために物資が届きにくかった人々を、配布スタッフに被災者を採用するなどして、重点的にケアした。被災地から遠野へ来てもらい、農家民泊の家で風呂と昼食を提供する事業も行った。農家の人々が受け入れに慣れていたので、スムーズにいったという。昼食に出された焼き魚を見て、震災以来初めて笑顔になったという漁師の人もいた。これからは、被災者のための仕事づくりが大きな課題で、そのための活動を展開してゆく必要を、菊池さんは強調する。遠野山・里・暮らしネットワークは、昨年3月28日に設立され、市民を軸にした幅広い後方支援ボランティア活動で知られる「遠野まごころネット」の創設メンバーでもある。

     

住宅としての利用は終わる

      

曲り屋では夏場でもかまどを焚いて茅葺をいぶす=遠野ふるさと村で

 曲り屋・千葉家は今、遠野市への移管の話が進んでいる。話が決まった暁には、千葉耿史さんは、他所(よそ)へ引っ越すことになっていて、暮らしの場としての千葉家住宅は、ひとまず幕を下ろすことになる。その話を、千葉家の管理事務所で聞いているとき、そこの勝手口の扉が、ひとりでに開き、一陣の風が吹き込んできた。偶然ではあろうけれど、ここが「遠野物語」のふるさとであることを思うと、不思議な印象だった。

 「にほんの里」の遠野市上附馬牛(かみつきもうし)・大出(おおいで)地区に回ってみた。山里文化体験施設「遠野ふるさと村」では、広い敷地内に、近郊から移築されたりした立派な曲り屋が立ち並び、地元の言葉で「まぶりっと(守る人)」と呼ばれるボランティアが、建物を管理したり、かまどに火を焚いて茅葺屋根をいぶしたりしていた。田んぼでは、青々とした稲が秋の稔(みの)りを待っていた。

 (グリーンパワー2012年9月号から転載)

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