暴風に耐えカラスにあわてず/子育ての知恵を蓄えたトキ
両津港の桟橋を降りると、そこここに、自然界でのトキのひな誕生を祝うポスターや垂れ幕が目につく。佐渡の人々の、トキへの思いや期待が、ひしひしと伝わってくる。6月24、25日には、「潟上(かたがみ)水辺の会」主催のホタル祭りが、佐渡市新穂(にいぼ)潟上地区で開かれていた。「水辺の会」は、地区の農家や住民約60人で構成され、トキのえさ確保のためのビオトープ作りや無農薬・減農薬の米づくりなどに取り組んでいる。トキのための環境整備の効果で、ホタルも年々増え、24日は1000人を超す人々が集まる大盛況。「水辺の会」の光井高明さんによれば、「夕暮れ時、ホタル祭りの会場の上を、トキが飛んでいました」という、美しい光景だった。
トキ米づくりが奏功
日本の自然界でのトキの孵化(ふか)は36年ぶり、巣立ちが確認されたのは38年ぶりだ。絶滅の恐れがある生物の「レッドリスト」で「野生絶滅種」とされているトキの、自然界復帰に向けた大きな一歩が踏み出されたといえる。
トキの野生復帰計画を推進している環境省佐渡自然保護官事務所の長田啓(おさだけい)・首席自然保護官は、「去年までの繁殖不成功の原因は一律ではなく、天敵、無精卵、風で巣が壊れたなど、ペアごとにそれぞれの事情があった。だからまず、ベースとなるペアの数を増やそうと考えた」そうだ。去年春に18羽、秋にも18羽放鳥し、放鳥前の訓練の成果があったのか、死亡率も下がった。おかげで、去年の7組に対し、今年は17組のペアが産卵。そのうち3組から、5月から6月にかけての約1カ月の間に、時期をずらして8羽が巣立っていった。
抱卵から巣立ちまでの様子は、望遠鏡にビデオ撮影機をとりつけ、一眼レフ換算、2000~7000㍉相当という超望遠機器で録画した。巣から4 00㍍離れても観察可能という。ネットでライブ中継した巣では、40㍍の地点にカモフラージュの無人テントを設営、その中に定点カメラを置きっぱなしにした。このライブ放映は、月間100万ビュー近い視聴者がいたという。
「トキのひなは誕生後40日ほどで成鳥と同等のサイズになり、巣立ちます。録画した映像は、1日おきに報道陣に提供していましたが、そのたびに、見違えるように大きくなっている。すごいなあと思いました」と、長田さんは振り返る。無論、自然界は甘いものではなく、危機はさまざまあった。森の木が倒れるほどの暴風が襲ったこともあったし、天敵のカラスが巣に近寄ったときは、映像を見ながら手に汗握った。「杉木立の奥につくった巣は、暴風にも耐えて無事でした。カラスが近寄ったときには、親が巣から立ち上がらず、冷静な対応でしのぎました」。最大の難関は、親の2倍近くえさを食べて、ひなが急成長する2~3週間目ぐらいの間。親鳥にとっては、巣で世話をしながら普段の半分ほどの時間で、ひな3羽と自分のためのえさを集めなくてはならない大仕事だ。一時は、えさが足りないのか、発育不良を疑われるひなも出たが、巣立ちまでには回復した。「思ったより広い範囲でえさをとっていたようです。ビオトープのないところでは、水田で大量のドジョウやカエルを捕まえていました。地元の人の朱鷺(とき)認証米の取り組みが、えさ場の確保に大きな効果があった」
地元は背水の陣
えさ場の確保に尽力した「水辺の会」の光井さんは、「地区では今年は絶対産ませよう、今年しかないと考えていた」という。昨年、有精卵の確認まで行ったペアがおり、繁殖の可能性があった。にもかかわらず今年も駄目となると、佐渡ではもう自然復帰は無理なのではないかという動きが出かねないと心配していた。トキのために投じられる国の予算にも響く。「だから、やれることは全部やろう」というつもりだった。
ドジョウ一辺倒の「偏食」にならないよう、えさの多様性を確保する努力をした。そのために、秋口から金北山(きんぽくざん)まで落ち葉掃きに行き、田んぼやビオトープに、高山の樹木、低山の樹木、笹の3種の落ち葉をまぜて入れてみた。土地の農家の昔からの手法だという。納豆菌、乳酸菌、EM菌も試した。ビオトープの中に多様な世界をつくり、ガムシなどの水生昆虫が増え、トキの栄養バランスにつながることを目指した。定点カメラでひなが確認できたときは、「やっと出たな」という気分。「安堵(あんど)」とともに「育つか」という不安が膨らんだ。ひなが生まれた集落では抱卵や子育て中は、森へ近づかず、祭りの予定を変えて、佐渡名物・鬼太鼓(おんでこ)をたたくのも遠慮していた。「でも、結局えらかったのはトキ自身。本能的に、やりきった」
今はようやく「登山口」
大きな一歩を踏み出したとはいえ、トキの野生復帰に向けて今の段階は、「ようやく登山口にたどりついたところ」「建物のコンクリートの土台が乾いた程度」と、長田さん、光井さんの意見は一致している。8羽のひなは生まれても、放鳥されたトキの中には死んでゆくものがいて、自然界のトキの総数が増えているわけではない。死んでゆくものと生まれて来るもののバランスが取れ、個体群が安定してはじめて、生物学的にトキが野生復帰したということができる。
また、人とトキとの共生の可能性を考えると、今はお祭り騒ぎでめでたいが、数が増えれば、いいことばかりとは限らない。
観光客に「野生のトキを見に来てください」と、今は言えない。トキが人に不必要に驚くことがなくなるときを待たねばならない。「松くい虫防除の薬剤散布ができない」「稲を踏まれる」などの声があがることも想像できる。
「人と自然環境との関係は、社会・経済・文化の状況を踏まえて、残すべきを残し、変えるべきを変えるしかない。佐渡のトキは、人間生活が将来ぶつかる問題を先取りしているのではないか」と長田さんはいう。
佐渡の東海岸、「にほんの里」の野浦(のうら)に行くと、朱鷺認証米の棚田に、青い苗が20㌢ほどに育っていた。環境省の佐渡地域環境再生ビジョンでは、2015年ごろ、このあたりを含む小佐渡東部地域に、トキ60羽を定着させる計画になっている。トキが佐渡にいることが、精神的にも経済的にも地域のしあわせにつながる状態をどう作るか。これから、模索が始まる。
(グリーンパワー2012年8月号から転載)