(2017年9月12日付朝日新聞「列島を歩く 島に生きる」より)
山口県上関町の祝島(いわいしま)は、瀬戸内海の西に浮かぶ。伝統の「神舞(かんまい)」が1000年余り続く一方で、4km先の対岸に持ち上がった原発建設計画に、35年間にわたって反対運動が続いてきた。高齢化が目立つ島の人口は400人を割り、反対運動や島の暮らしにも新たな動きが出てきた。
8月下旬の朝、清水敏保さん(62)は県東部の柳井港にいた。岸につないだ清水丸に、肥料やプロパンガス、酒など、島の暮らしに必要な日用品を積み込んでいた。島の人たちから頼まれた風邪薬も買いに走る。
週2回、船で1時間かけて島に荷物を運んで32年。昨春からは長男の康博さん(26)も乗り込む。
島に戻ると荷物を配達。この日は夕方から「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の運営委員会に顔を出した。会の代表、そして町議としての顔も持つ。
島から4km先の上関町田ノ浦湾の14万平方mを埋め立て、原子炉2基を建設する上関原発計画が明らかになったのが1982年。立地調査海域に漁業権を持つ旧8漁協のうち、建設反対は旧祝島漁協だけ。中国電力は2009年に準備工事に着手したが、11年の福島原発事故で中断した。
計画は停滞したかに見えるが、中国電力がボーリング調査を再開し、県漁協では漁業補償金の配分案の提案が出たりと動きもある。「白紙撤回されるまでは一歩も引かない」と語る。
島の人口は35年前に1300人余だったのが389人になった。大沢太陽さん(33)にとって、「スイシン」「ハンタイ」は、生まれたときから耳慣れた言葉だった。「ハンタイ」のおじいちゃんに手を引かれ、デモにも出かけた。「自然が売り物のこの島で、原発ができたら何もなくなってしまう」と語る。
母親が祝島の生まれ。埼玉県でカメラの仕事をしていたが、毎年里帰りしていたから島では顔なじみだ。4年に一度の島の祭り「神舞」に昨年、顔を出したところ、参加者の少なさと高齢化にがくぜんとし、先月に住民票を移した。
古くから九州と京都を結ぶ船の航路にあたり、平安時代に嵐で避難した人々を島民が助けた故事から始まった伝統行事。「幼いころはにぎやかだったのに、このまま続くのか。10年たったら島はあるのか」
今年になって「さかな屋」を始めた。しばしば開く朝市が人気。将来は「祝島のタイ」を全国ブランドとして売り出す夢がある。
昨年の神舞には、変化もあった。大沢さんがこぎ手で乗った「櫂伝馬船(かいてんません)」の先頭で踊る役を、札幌から移住した堀田風太くん(15)が務めた。12年春に家族4人で移ったばかり。島生まれ以外で初めて抜擢された。
父親の圭介さん(51)は港で小さなカフェを営む。「たいへん光栄なこと。みなさんと一緒に島を元気にしたい」。島の自治会にも加わり、空き家の活用法などを話し合う。
反原発運動にも動きが出てきた。海外からも視察や旅行客が訪れるのだ。
8月上旬に16人の団体がやってきた韓国では、大統領が6月に「脱核国家」への宣言をしたばかり。「日本の原発事故の教訓を韓国がいち早く実現したのに、唯一の被爆国がなお新設とは理解できない」との発言もあったそうだ。台湾からも旅行者が「デモに参加したい」と訪れたという。